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退屈な人へ 第30回定期演奏会より 2006.2.11
2005年10月、手伝いの為、久々に故郷広島に帰った。間伐や間伐材の除去・処理等、慣れない私にとって大変な作業だ。当然筋肉や関節が悲鳴をあげるのであるが、その後のビールが実に美味い。そして、遠く離れた故郷での作業は、童心に戻り、幼友達との語らいや家族の思い出に浸れる絶好の機会ともなる。
しかし、時節柄、騒ぐ虫を抑えきれず弟家族とキノコを探しに山に分け入った。以前は山や川等の自然が遊び相手で、自由に駆けめぐっていたものだが、気がつけば遙か昔のこと、気持ちとは裏腹に体がついてゆかない。山道も忘れてしまい、なかなか目的地に着かない。急ぐほど葛やいばらの攻撃に前進を阻まれてしまう。
特にいばらの猛攻は凄まじく、音を発することなく、時には姿さえ見せることなく攻撃を仕掛けてくるのだ。前後左右どちらにも動くことが出来ないことも度々。大人二人で小学生二人を守りながらキノコを求めて山をさまよった、俗に言ういばらの道、とは上手いこと言ったものだ、と感心しながら。
そこそこの収穫を得ての帰り道、近道をしようと山越えを避け、谷筋を選択してしまい方角を見失ってしまった。大人二人で小学生二人を間にはさみ、必死で歩いた。迷いながらも何とか山から脱出し、人里に出たときには日も暮れ、辺りは闇に包まれていた。念のためにと思い携行していたミニライトが役に立った。何とか無事に家にたどり着いたものの、これがもう少し深い山であったら、と考えると背筋に冷たいものを感じた。
家について驚いた。上着もズボンもいばらの攻撃でぼろぼろで、腕や足も服を着ていたにもかかわらず傷だらけであった。ただ、10年来履き続けてきた茶色の革靴だけは、泥の付着と傷が増えた程度で、今後の使用に支障を来すことはなさそうであった。もともとは、主張の時に使っていた我が家にとって決して安くない靴であったが、底がすり減り、普段履きとして使用していたもので、山中をさまよい酷使したにもかかわらず意外に丈夫な代物だった。
2005年11月、東京へ行った。久々の慣れない東京なので時間にゆとりを持って乗り換えの時間もきちんと確保して準備万端で行った。本番を翌月に控えた某音楽大学の吹奏楽合奏の授業を見学する為だ。乗り継ぎの時間にゆとりを持ちすぎたので案外時間を要して学内のホールに着いた。知らないオッサンの進入に学生達は拒絶をするのかと思いきや、殆どの学生が挨拶をしてくれる。驚きとわずかながらの心地よさ、そして緊張感を伴って会場に入った。
久しぶりに見る吹奏楽の大合奏は圧倒的で、新鮮に響いた。管楽器を専門に学んでいる学生だけに、音に無理がなく柔軟な輝きであった、もちろんそれなりの技術も併せ持っている。編成も充実していて、目に入るもの全てが羨ましかった。100人前後のバンドを音楽監督、指揮者、各楽器の指導教官で色々な方向から指導しているのである。本番はフランス・パリ・ギャルドの隊長(指揮者)を努めたロジェ・ブートーリーが努めるというから驚きだ。
ブートリーと言えばギャルドが二度目に来日した時、指揮者として日本中の注目を集めた。20年程も前のことだろうか、名古屋でギャルドの演奏が生で聞けるというので,はやる気持ちを抑えて市民会館に足を運んだのがつい昨日のように思われる。
ギャルドはパリ音楽院の卒業生100人の超エキスパートの連中で編成され、重厚で圧倒的なテクニック、オーケストラをも凌ぐ表現力を兼ね備えたジュリアン・ブラウンの演奏で、私を虜にしていた。1961年に初来日してディオニソスの祭り、トッカータとフーガニ短調・・・等の名演奏で日本中の吹奏楽ファンをうならせたばかりか、世界中の音楽仲間がその存材を認めている世界で最も有名なバンドである。そのギャルドをブラウンから引き継いだばかりのブートリーが引き連れて名古屋にやってくるのである。チケットが発売されるとすぐに一番良い席をゲットしたものだった。
その世界のマエストロを指揮者として迎えてコンサートをするのであるから、その音楽大学も凄いし、学生達もしあわせである。
そして本番、改めてブートりーのプロフィールに目を通すとギャルドの楽長を何と24年間も勤め、作曲家としてはラベルも落選したローマ大賞を受賞し、ピアニストとしてはチャイコフスキーコンクールで入賞している。そして、名門パリ音楽院の作曲家の教授を務めるなど、フランスを代表すると音楽家となっていたのである。
曲目はラベル、ドュッシーを中心としたフランス音楽で構成されていた。
第1曲目、ドビュッシーの小組曲の演奏が始まった途端、我々の目と耳を釘付けにしてしまった。ブートリーは若い学生達と共に、会場全体をいとも簡単に鮮やかな色彩の世界へと導いていった。これまで聴いたことのない、フランス印象派の薫りに会場は包まれた。終曲、ラベルのダフニスとクロエでは久しぶりに大きな感動に浸ることが出来た。
又1曲だけ彼の作品も演奏されたが、最近よく耳にする多くのバンドのための新作とは、格が違っていた。ローマ大賞まで受賞しているのであるから当然といえばそれまでだが、素晴らしい彼の曲を生で聴き、新曲ラッシュの最近の吹奏楽コンクールの現状を憂わずにはおれなかった。
2005年同じ月、再び東京へ行った。今度はその音楽大学での面接のためだ。久しぶりの面接のため、最大限の正装に身を固め、やや緊張して出発した。これまでの経験を生かし、乗り継ぎでのロスタイムを短くして、能率をはかった。
車で春日井駅に向かったが、5分ほど走らせたところで、財布を忘れていることに気付き、あわてて家に引き返した。自宅と春日井駅との時間を通常なら30分とっているのだが、今回は25分に短縮していた。大切な面接に送れてはならない、と家に引き返すやいなや猛ダッシュで財布をゲットした。運動不足で怠惰な生活を送っている割には、このような緊急事態の時には俊敏に動ける。中身を確認して再び車に乗り込みアクセルを踏み込んだ。幸い道路は空いておりスムーズ走れた。駐車場に着くやいなや、ダッシュで駅に向かった。
と、その時何か足に違和感を感じた。というより、柔らかないつもと同じ感触が妙に気になった。今日は正装に身を固めているのだから靴もよそ行きの、日頃滅多に履くことのない綺麗なものを用意していた。でもふと靴に目をやると、10年来酷使し続けてきたあのキノコ狩りの時に履いていた靴を履いているではないか。ヤバイ!緊張が走った。ズボンから上は毛が薄いことを除けば正装に身を固め、ほぼ申し分のない服装であったはずなのであるが、面接には耐え難いとんでもない靴を履いていた。
朝家を出るときには確かに良い方の靴を履いていたのだが、財布を忘れて猛ダッシュで家に取りに帰った時に、無意識のうちについうっかり、履き慣れたいつもの靴に履き替えて出てきてしまったのだ。
日頃はのんびりと遅い頭が、急速に回転を始めた。今更家に取りに帰ることも春日井で買う時間もない。選択肢は一つ、まず電車に乗ることだ。急いで改札を通りホームへ向かった。履き心地の良い靴であるはずなのだが妙に足が気になる。車内でも人の足ばかりに目がいってしまう。山中では履きやすくて、丈夫であっても大学での面接となるとまずい。
面接時に目立つのは前方だけだから、東京の靴磨きで靴の前の方にだけ、たんまりとクリームを付けて磨いて凌げないか。いや、ここまで酷使して傷だらけとなった靴を果たして磨いてくれるかどうか。財布にはお金は入ってないがカードなら有る。磨くことが出来なければ買うか。名古屋駅で買うには最低30分ぐらいは必要だろう。ところが、今回に限って名古屋での乗り継ぎ時間は10分しかとっていない。名古屋駅が無理なら大学の近くで買うしかない。
あれこれと思いを馳せているうちに大学近くの駅に着いた。さあ靴だ、急いでまずデパートに入った。6階に靴屋さんらしきお店が有ったので直行した。面接までの時間を考えると自分で品定めをしている時間はない、迷わずお店の人にサイズと色の好みを伝えて、お勧めの靴に即決した。履いてきた靴を見ていただく時と、履き替えるときには多少の勇気を必要としたが、躊躇していいる時間はなかった。新しい靴を履くと、やっと上半身と靴とのつり合いが取れた。急いで大学に向かい、何とか無事に面接を終えることが出来た。
履いて行ってしまったいつもの靴は、お店の方にお願いして宅急便で自宅まで送ってもらい、今でも大切に履いている。 桐田正章
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